シリコンバレーで起業し、そして、世界一のエンジェル投資家として知られるJason Calacanis(ジェイソン・カラカニス)氏から出資を受け、二年目となりました。振り返ってみると、思うようにいかないのはマシな方で、思ってもみなかった不足な事態ばかりの連続でした。
ともに志を立てた創業チームが離れ、一人となり、「世界中で使われる」を夢見たプロダクトを閉じ、何度もアイデアを試してはまた閉じて、信じてくれた人たちを失望させてしまったこともあったかもしれません。
こうした難題に直面してきて、及第点で乗り越えられてきたのかは分かりませんが。それでも、全てを捨てる覚悟をし、新しい領域で事業を起こし、新しいチームを組織し、そのビジネスがNYSE上場企業の顧客を持つまでに至りました。どうしようもない状況を変えざる、自分自身も変わらざるを得ない中で、私がどのように振る舞ったのか、次に踏み出すことができたのかを、少し恥ずかしいのですが綴っていきます。
シリコンバレーの表舞台へ
リモートワークでも会社のオフィスにいるかのように、気軽に声をかけられるツールとして、Remotehourをローンチしてから程なくして、Jason Calacanis氏から投資を受け、彼のアクセラレーターLAUNCHに採択されました。
スタートアップのアクセラレーターと言えば、Y Combinatorが有名です。一つのコホートで100社以上を募り、メンタリングを中心に進められるYCに対して、LAUNCHは少数先鋭(6-8社)で、週に一回、USを中心とした投資家たちへピッチする、資金調達に重きを置かれたプログラムとなっています。
2017年に同アクセラレーターを卒業したAnyplace創業者 内藤さんのブログでLAUNCHや、Jason Calacanis氏のことはよく知ることができるのですが。コロナ渦以降、完全オンライン化したプログラムでは、一回のピッチに20人の投資家がZoomで参加し、コホートを通してVCからエンジェル投資家まで、400人以上に出会うことができました。
また、毎回参加企業によるピッチがすべて終わると、その回に出席していた投資家たちが気に入ったスタートアップを3つ選び、ランク付けする流れが採用されていて。内藤さんのブログでは、最初のピッチ回で獲得投票が0票だったと苦い体験が綴られていたのですが、私の場合、三回目まで票が入らず、初めて名前が呼ばれたのは四回目でした。
打ちのめされるとは、まさにこのことで。LAUNCHに入れた喜びも束の間、「自分は本当にここにいていいのだろうか。」と悔しさいっぱいで、ピッチの前日になるといつもお腹が痛くなっていました。
物語を語るように
とにかく、私はピッチが得意ではありませんでした。英語となれば尚更です。人前で話すより、閉じこもってモノを作っていたい私には、言葉でなくプロダクトで語る方が楽でした。この癖をこじらせて、ピッチが始まるとつい「あれもこれもできる」となってしまいました。
そんなプロダクトの性能ばかりを謳ったピッチを披露し続け、Jasonから直々に指摘を受けることとなりました。スタートアップが最初の資金調達を成功させるために必要なのは、プロダクトそのものではなく、ユーザーストーリー。深いペインを抱えているユーザーが、なぜそのペインを抱えていて、どのように解決できるかの解像度をどこまで上げられるのかが、出資の確度を上げることに繋がる。
ピッチを上達させることは、プロダクトづくりで勤しんできたことにも似ていて。一つのスライドに対して一つのメッセージを心掛け、Jasonや他の投資家から受けたフィードバックを徹底的にプラスへ反映していけば、すぐに改善の結果が表れていきました。
あとは、練習あるのみです。何十回、何百回もスクリプトを唱え、英語ネイティブの先生に間違った発音を直してもらうを繰り返しました。それでも苦戦したのが質疑応答でした。投資家からの鋭い質問に、合理的に答えるのを不得意な英語でやり通すのは、コホート期間ではどうしても克服できないと悟りました。自分ができないのであれば、できる人に頼む他はありません。質疑応答の部分では、前代未聞、通訳をつけるという荒技で乗り越えることができました。
デモデイを経て
2020年10月、LAUNCHの集大成として、デモデイの日を迎えました。デモデイには、Jasonが組成するシンジケートの出資者、加えて、シリコンバレーで名の知れ渡るVCのGPや、エンジェル投資家たち、更に、公募による閲覧者を合わせれば、およそ500名以上がその場に集まってきました。
デモデイの得票で、トップ3に入ることはなりませんでしたが。後日、幾つものVCから連絡が入り、投資のミーティングを行なうことになりました。LAUNCHが始まって以来、夢にまでJasonが出てきて、緊張の解れない日々を送っていましたが、アウトサイダーとしてアメリカに入って6年、ようやくシリコンバレーの起業家に仕上がってきたと思える瞬間でもありました。
プログラムが終了したのは2020年11月で、その年の暮れは日本にいる開発チームに会いたかったこともあり、二年振りに帰国することにしました。リモート下で始まり、リモートワークの製品を作ってきても、実際にチームで集まってみると、すぐに繋がれるパソコン越しもやっぱり対面には敵わないなとつくづく思えました。
ちょうど、同じタイミングで帰省していた内藤さんと私がキッカケとなり、Clubhouseが国内で爆発的に普及したのもこの頃でした。キー局すべてから取材を受け、普段知り合えない有名人の方々と絡めたのも、いい思い出となりました。
一方で、6年間の下積みを経てきた私には、シリコンバレーの中の人たちに認識され、慣れないマスメディアで取り上げられることはあまりに刺激が強すぎました。目下の数字よりも、根拠のない自信が上回り、空回りし始めることにさえ、この時、気づくことができませんでした。
General Catalyst
二ヶ月弱の日本滞在を終え、私が取り組んだのは二度目の資金調達でした。通常、アクセラレーターに参加した企業はデモデイまでに引き上げた実績と、投資家との繋がりを生かして、次のラウンドへ向かいます。実際、時を同じくしてLAUNCHを卒業した同期たちは、既に調達を完了させていて、新たな事業展開へ一手を打ち始めていました。
私たちは当時、知り合った投資家たちを招き、Remotehourを通して、調達前のスタートアップが彼らにアポ不要で、5分程度のピッチができるオフィスアワーをキャンペーンの一環として行なっていました。日本でも、MIRAISEがこの仕組みを利用して、満足度の高いスタートアップ探しを実現していました。
このキャンペーンに参加してもらう名目があって、デモデイを終えてしばらく経ってからでも、継続的に投資家たちと知り合う機会を創出することはできていました。また、スタートアップの創業者や、投資家がリアルで集まるエリアとして注目され始めた、マイアミへ移動し、直接彼らと出会えるチャンスを伺いました。
こうした活動に精を出していくなか、Niko Bonatsos(ニコ・ボナトソス)氏と知り合いました。Nikoは、SnapChatの初期投資家として有名で、彼がパートナーを務めるGeneral Catalystはシリコンバレーのトップティアに数えられる指折りのVCです。
日本での就業経験もあったNikoとは意気投合し、オフィスアワーのホストを務めてもらうことになりました。この回では、LAUNCHの同期や、Waffle さっそが参加し、Nikoが初めてRemotehourを使う機会にもなりました。
オフィスアワーのあと、数往復のメッセージを交わし、General CatalystのSaaS領域への投資を担当しているZak Kukoff(ザック・クコフ)氏と、今回ラウンドでの出資を前提としたミーティングが設けられることになりました。
こうしたトップティアVCから出資を検討されるのは大チャンスだし、Remotehour創業者として、シリコンバレーの起業家として、必ず掴まなければならない仕事でもありました。デモデイで培ったピッチスキルを思い起こし、15分のミーティングに向けて、何十時間もの準備を重ねました。
訪れる破局
Zakとのミーティングから3週間以上が経ち、「今は出資できない」との返事が届きました。
投資家、ましてや、たった一時間でさえ話していない人の決断に一喜一憂しても仕方ありません。しかし、この返答を境に、チームや関係者の士気はどんどん下がっていくのが分かりました。
プロダクト自体も、完全にモメンタムを失いつつあり、残された数十人の有料顧客をリテンションさせるのに必死でした。ペイド広告や、慣れないセールスに一所懸命となるも状況が変わることはありませんでした。
それから数週間もしないうちに、やり場のない起業に痺れを切らした共同創業者から別れを切り出されました。この時、創業チームのもう一人も既に、開発の関係上、会社を去っていて、社内には彼と私だけが残っていました。
別れを切り出されたからといって、「はい、分かりました。」と二つ返事できるわけもなく、まだやれることは全てやったのか、あと一ヶ月でも自分を信じて欲しいと訴えても、一度決まった人の心を覆すことはできず、淡々と会社を離れる事務作業が進み、あっという間に、私は一人になりました。
この時は、本当に悔しかった。彼とは長い付き合いではないにしても、心底期待していたし、どんな結末であろうと最後までそれを共に迎えにいきたいと思えた相手でした。「どんなに辛くても、うちのチームなら大丈夫。」と勝手に思い込み、会社や私に対して愛想を尽かしていることに気づくことができませんでした。
彼が去っても、プロダクトは続けたい。思いつく限りのユースケースを試してきたのですが、そのプロダクトが世の中の課題にハマることはなく、結局、General Catalystのディールが破談して一ヶ月も経たない間に、チームとプロダクトの両方を失なうことになりました。
やり場のない起業
スタートアップをしていれば、チームが解散したり、プロダクトを閉じる、それが同時に訪れるなんてよくあることで、諦める理由には全然届きません。この先、もっと乗り越えなきゃいけないことが山ほどあるんだろうなって思わないと、決して成功することはできません。
大切なのは、こうした失敗から学び、次の戦いで勝率を上げること。私が学んだのは、人に期待してはいけないし、プロダクトに酔ってはいけない、でした。
株を割った共同創業者なら、自分と同じで、休みなく働くだろう、事業の方向性が変わっても分かってくれるだろう、何があっても諦めないだろうというのは、間違った期待です。他人が考えていることを完全に知ること、変えることなんて、誰にもできるはずはなく、事業が上手くいかない時こそ察するべきだったし、もっと信じてもらう努力をするべきでした。
そして、シリコンバレーで著名なインフルエンサーや、メディアで言及される虚数に振り回されて、プロダクトの本質を見失っていきました。プロダクトがあるからこそ、プロダクトに引っ張られ、純粋に仮説や課題に取り組めず、「これを使って何ができるか」と逆算的な発想に囚われてしまいました。
私は、リモートワークで難しくなった、仕事上の人間関係にまつわる課題にチャレンジしたいと胸に秘めながらも、ゼロから新しいプロダクトづくりに励み始めました。そうして、連絡が取れていたRemotehourのユーザーたちとインタビューを交わし、本当にリモートワークで繋がるべきは、顔と時間を合わせてミーティングする同期よりも、好きな時にメッセージを送って、好きな時にメッセージが受け取れる非同期ではないかという仮説に至りました。
それから、ブラウザ上で録画し、投稿できるビデオのSubstackや、スクリーン録画を含めたビデオメッセージ機能をコード数行でアプリケーションに加えられるAPIの開発をし、提供しました。ユーザーとサービスプロバイダーの距離が近くなっている昨今で、初速は分かりやすい指標なのですが、いずれのサービスもアクイジション(顧客獲得)、リテンション(継続率)の両面で「続ける」という判断をすることができませんでした。
他にも幾つかのアイデアを試してきましたが、どれも奮わず、この期間、投資家や知り合いに顧客になりうる人たちを紹介してもらっていて、彼らからすれば、コロコロとアイデアが変わって移り気に見えていたかもしれないし、かといって、心の折れたアイデアを続けるわけにもいかないと、減っていくお金を横目に焦りながらも正しい的を当てなければならないと、かなりメンタル辛い日々が続きました。
でも、やっぱり諦める理由にはなりません。これまで、私は結果を残さなくては、勝たなくては意味がないと言い聞かせ、こうした結果によってのみ自分や周りを評価してきました。実際のところ、結果を出せるかどうかは水物で、正しい人が正しい努力をしていたからといって必ず叶うとは限りません。私たちができるのは勝率を上げて、勝負の回数を増やすことに限り、これらに人事を尽くして天命を待つほかないのです。
人事を尽くしていれば、結果が出るのは時間の問題。Remotehourや、他のプロダクトにも人事を尽くしてきたのであれば、気を落とすことなくやり続ければ良い。これは、ニューヨークのマンハッタン島を延々と歩きながら、内藤さんが気づかせてくれたことで、私をいつも励ましてくれた考え方です。また、共同創業者に振られ、失意の中で誘ってくれたSukiの焼きカレーの味は忘れられません。
大きなリスクを生めるか
私は変わらなければなりませんでした。これまでと同じように考えて、プロダクトを出し続けてきたとしても、私が持っている勝率では運に頼るところが大きいなと感じていました。アイデアを発想する、もしくは、方向性を決める際に、私の場合、私自身が経験してきたことや、私にしかできないことであるかどうかを基準に判断してしまうことが多く、ある意味、自分という枠に固執していました。
シリコンバレーの兄貴分であり、Knot 創業者のKiyoさんや、内藤さんがよく言っているのが、起業家として「大きなリスクを生めるか」です。一般的に、リスクは取るか、取らないかという文脈で使われることが多いのですが、普通に考えていても「リスクを取ることができる」場面に遭遇することはほとんどありません。
そういう意味では、起業家はリスクを生むのが仕事であり、そのリスクについて深く考えなければなりません。スタートアップには、主にマーケットリスクと、エクセキューションリスクがあって、取り組むべき課題があったとしても、それが市場として伸びていくかどうか、既に飽和していたとしても代替できるかどうかと、今の技術やチーム内のスキルによってそれができるかどうかです。
自分という枠の中で収まってしまうことは、いずれのリスクも取りづらく、だから私は変わらなければいけませんでした。では、どうすれば変われるのか、どうすれば大きなリスクを生めるのか、これらの問いかけに対する一つの回答が「孫さんだったらどうするか」です。
私にとっては古巣でもある、ソフトバンクは近年で最もリスクを取り続けたベンチャー企業であり、この指揮を執り続けたのが、孫さんです。今の私ではなく、孫さんが同じ立場に立たされたときに、彼ならどんなビジネスに取り組むのか、どんな一手を打ちにいくのかを考え、果敢に実行していく。そうしたストレッチが、自分という枠から外れることに繋がります。
ソフトバンクや孫さんにまつわる書籍を読み漁り、動画サイトで見れる講演での一言一言を噛み締めることで、自分の中に孫さんを作っていくことができました。孫さんから学び、そして、当局を敵に回しても、妥協せず狂気的な戦略を推し進めた、UberのTravis Kalanick(トラビス・カラニック)や、溢れ出す赤字に物怖じせず、不動産を借り上げ続けた、WeWorkのAdam Neumann(アダム・ニュウマン)の姿勢を反面教師半分に取り入れ、少しずつ、自分の枠の外で考えられるようになってきました。
この「〇〇だったらどうするか」という問いかけは、自分が考え得る範疇に限界を感じた時にとても有効で、私が宿した孫さんでさえ、彼の敬愛する「坂本龍馬だったらどうするか」と思考を巡らせることがあると似たようなことを話していました。こうした発想を瞬間的に巡らせるためには、日頃から正しい人たちから学び続ける姿勢を続けなければなりません。
仕事の未来に欠けてるもの
自分の枠から外れる最初の一歩として、作る手を止め、探すことを始めてみました。これに導くキッカケになったのが、Autify 創業者の近澤さんでした。同じエンジニア出身で、BtoB領域で事業を模索していることもあって、最初のプロダクトに取り組んでいた頃から定期的に相談に乗ってもらっていました。
近澤さんのブログにある、バーニングニーズ(頭に火が付いていて、今すぐ消さないとマズイ課題)を特定するために、まず、対象となる顧客を人事担当者と絞り、リモートワーク下での問題についてトコトン話していこうと決意し、始めて二ヶ月で106件のアポを取り、5000件以上の営業メールを送りました。
異なるタイムゾーンで働くチーム内におけるコミュニケーション、給与交渉、OKRの再設定など、さまざまな困ったこと耳にしましたが、中でも最も深刻に思えたのが「チームビルディング」でした。
多くの会社たちが、完全なリモートワークへ移行したことにより、オフィスで生まれるような何気ない会話が減り、お互いを知り合う機会が激減していきました。同じ組織で働いているのに、誰も知らないような環境が続き、やる気がなくなってしまったり、地元の会社に転職してしまう社員が増えてきているのが課題になっていたのです。
振り返ってみると、こうしたリモートワークで生じる人間関係にまつわる課題は、Remotehourやそれ以降のプロダクトを通して見つめてきたことで、私自身もこれに失敗して、チームを解散するという、取り返しのつかない結果を生むこととなってしまいました。
ZoomやSlackは、業務においてはとても便利です。この二つを使えば、時間を合わせて話す、時間が合わない時でも連絡を取れる、両方を補完することができます。しかし、チームと仲良くなり、何か新しいことを話し合って生み出すとなれば、リアルで会って話すことに変えられない何かがあるものです。
リトリート事業に挑む
オフィスに通わず、リモートチームが集まる機会を創出する。私が取り組むと決めたのは、リトリート事業です。日本語で訳すと、社員旅行に当たるのですが、コロナウイルスの脅威によってリモートが当たり前となった世の中では、レジャーよりもチームビルディングに重きが置かれ、まったく新しいリトリートが求められるようになりました。
コロナ渦前のリトリートは、どちらかといえば福利厚生の面が強く、日帰りや一泊二日でオフィス近郊のリゾート地へ出かけるものでした。しかし、これからのリトリートは、それぞれの国や地域に点在している社員が、一つの都市に集まり、アクティビティは勿論、対面でのミーティングを通してチームを結束させるために実施されます。
これからのリトリートを企画するにあたり、社員それぞれがアクセスしやすい目的地を決める、大規模な人数を収容できる施設を探して、直接予約する、加えて、それぞれの出発地から目的地までのフライトチケットを手配するなど、莫大な作業が発生します。たいてい、これらの業務を担当しているのが人事部で、本業と掛け持ちで取り組み、できることなら誰かに代わりにやってもらいたいと考えているはずです。
では、本当にリトリートを行っている会社はあるのか、この業務を代行したいと考えているのか、こうした仮説を前提に、改めてインタビューを再スタートすることにしました。再開して一発目のインタビューで、「まさにプランニングが本業になって疲れていたんだ。」と吐露する担当者と出会うことができ、「じゃあ、やらせてください!」と答えて、最初の案件を受注することになりました。
プロダクトは当然ありませんでした。Googleスプレッドシートに、施設やアクティビティの情報を一覧化して、これをもとに、Airtableに旅程表を作成する、そして、クライアントが気に入った施設に電話をかけて予約する、この流れで、最初の売上を上げることができました
こうしてリトリート事業の可能性を手に取ることができました。オミクロン株の影響もあって、せっかく受注した案件を余儀なくキャンセルすることもあったのですが、世論がコロナ緩和に傾くにつれて、リード数は少しずつ増えていきました。
一つ一つの案件クオリティを担保するにも、もっとリードを増やしていくにも、すぐに自分一人の限界を感じることになりました。そのことをKiyoさんに相談すると、「いい人がいるよ」となり、LAに住むMariさんを紹介してもらうことになりました。Mariさんは、アメリカ在住歴としても、社会人のキャリアとしても、私より遥かに経験豊富で、注文の多いクライアントの対応も卒なくこなされていきます。
Mariさんに獲得した案件のバックサポートを任せられるようになってから、リード獲得に集中できるようになり、顧客層はシリーズAのスタートアップからNYSE上場企業まで、月の売上は240K米ドル(日本円で約3000万円)を超え、クライアントからも継続して利用したいという満足度の高いフィードバックを受けるようになりました。
現状、クライアントに提供する旅程の作成、予約における施設とのやり取り全てを、チームと私の受け答えによって進めているのですが。世界中の空港から集まるという、複雑なロジスティクスの問題を皮切りに、ソフトウェア化できる余地は大いにあると考えています。
また、年に一回、二回の開催だった、一会社におけるリトリートの頻度も高まっています。四半期ごとに全社ミーティングを実施したり、社内の部署ごとにミニリトリートを企画する会社もあります。つまり、我々が狙うべきは、新しいリトリートではなく、オフィスに代わるチームが集まる機会です。オフィスを持たないことで浮いた予算が充てられて、大きな市場になりえます。
当然、リスクは沢山あります。一回のリトリートで会社の規模以上に大きな金額を取り扱うこともあるし、コロナ渦が完全に収まったわけではありません。市場が伸びていく上で、優秀な創業者が率いる競合も多く参画してくるでしょう。しかし、今のチームと私なら必ず勝てます。安牌は取らず、孫正義譲りの全ツッパで、大きなリスクを生み出し続けていきます。もう迷いも躊躇もありません。
起業する理由
なぜ起業するのか、どうしてシリコンバレーなのか。メディアから取材を受けることも増え、公を前に、こういう質問を投げかられる場面も増えました。毎回、それっぽく答えてはいたものの、自分の中で言語化できていないところが多くありました。そんななか、Kiyoさんが今年の正月に、シリコンバレーで挑戦している起業家たちを集めて、志について語り合う会を開くということで、私も参加することにしました。
私にとって志とは、自分の命や、人生よりも大切なことに身を捧げることです。新渡戸稲造著「武士道」の忠義にあるように、私もまた、個人としてやりたいことや、幸せになることよりも、主君となる何かのために尽くして生きていたいです。大切なことのために命を投じることができる歴史をもった母国を誇りに思うし、この意地を世界に思い知らせてやりたい。
そして、私が生まれた時から、自動車があって、飛行機があって、思い立てば、一日もかからず世界のどこにでも行くことができました。中学生になった頃には、インターネットが普及して、地球の反対側に住んでいる人たちとすぐに繋がることができるようになりました。知らない誰かによる発明や、弛まない努力によって、今までの人生、多くの先人による恩恵を受けてきました。それを思えば、自分も何かに貢献できなければ、カッコ悪くてあの世にいけません。
私が決めた人生のテーマは、誰かがやらなくてはいけないが、世界中の誰もやっていない価値のあることに取り組み続けることです。短く、長くも、一度しかない人生に相応しいテーマだと思っているし、飽くことのない未来が待っています。これに取り組み続ける上で、シリコンバレーをおいて他はなく、この地で起業することで得られる出会いやチャンスは然ることながら、振り返った約十年で変わってきた景色と、培ってきた人間関係も重なり、シリコンバレーは夢を見る場所ではなく、人生を賭して戦い続けるべき場所となりました。
こうしたチャレンジができているのは、投資家や関係者の方々より力強い支えがあるからです。VCとして最初に投資を決めてくれて、プロダクトを閉じて、アイデアを模索中にも親身に相談に乗ってくれたMIRAISE 岩田さん、布田さん、みのさん、私の曖昧とした意思決定に一石を投じて、冷静なアドバイスをくれるUBV 岩澤さん、高野さんには頭が上がりません。
また、今は離れてしまったけれど、私と共に戦ってくれた元共同創業者や、チームの面々にも感謝しかなく、彼らがここで働いていたことを誇りに思ってもらえるよう精一杯、人事を尽くします。
それでも譲れないもの
この二年間ほど、変わらざるを得ない立場に立たされることはありませんでした。この先、大きな決断をしなくてはならない場面がもっと増えれば、もっともっと考え方や、行動を最適化していくことになるでしょう。と同時に、シリコンバレーに入った7年前から、何があっても譲れない関係や思いというのもあるものです。
四年制の大学を卒業し、大企業に就職し、これを一年で辞めて、自分も周りも不安でいっぱいのなか、シリコンバレーへ旅行ビザで渡りました。現地での宿泊先で迎えてくれたのが内藤さんで、まともな人生を踏み外して、一番最初に出会った相手でした。その夜、近所のスーパーマーケットに誘ってもらい、道中、内藤さんが当時取り組んでいたアイデアを話してもらったのをよく覚えています。
シリコンバレーに行けば何かあるんじゃないかと、シリコンバレーに縋ろうとする私に対して、シリコンバレーに真っ向から挑む内藤さんの覚悟が伝わり、自分もやってみたい、できるんじゃないかなと思い、一年のシリコンバレー滞在を決めました。
滞在を終えてしばらく、アメリカへ戻る機会をなかなか見出せず、日本で受託開発に励んでいたのですが。ふとFacebookのタイムラインで流れてきた内藤さんのブログ、Jasonから出資を受け、LAUNCHへ採択された話に、全く自分は一体何をしているんだと戒め、その日のうちにアメリカ行きのチケットを買いました。
アメリカへの完全移住が叶って、半地下に篭り、一人ただコードを書き続け、プロダクトを出品してた頃。内藤さんにコーヒーを誘ってもらい、一通りの近況報告を交わし、別れ際に「髪を切った方がいいよ。」と受け、翌日に何年も伸ばしてた髪を断ちました。
それからしばらく経ち、私もまたLAUNCHに入ることが決まり、内藤さんともやり取りをすることが多くなりました。チームを解散した時、プロダクトを閉じた時、どうしようもない負のループに陥っている最中でも、力強い言葉で励ましてくれました。
内藤さんの言動には、いつも正しさと納得感があり、勇気が湧いてきます。起業を始めてからの日々というのは、暗闇のトンネルに道を切り拓いていくようなもので、勇気はいつも進むべき道を照らしてくれていました。アイデアを発想し、プロダクトを作り続けるというのは私が心から信じ、長年費やし、周りに唱えてきたことでもありましたが、それが正しく思えても、積み木を崩すように変えなきゃいけない事態に迫られることもあります。ある意味、生き甲斐ともなった道を断つのは怖いし、とても不安で、勇気が要ります。だから、起業家が変わらず、勇気が湧いてくるような環境に身を置くことはとても大切なことだと思います。
内藤さんだけではなく、何でも親身になってサポートしてくれるKiyoさんを始め、シリコンバレーで共にチャレンジしている人たちには、いつも勇気づけられています。資金調達や、経営に行き詰まると壁打ちに付き合ってくれる長谷川さん、ポーカーになると、後輩にビッグブラフをかましてくるKazsaさん、下の手でもドローを果敢に引いてくるYusukeさん、そして、2040年の世界からタイムリープしてきたさっそ、それから、中屋敷くん、寅さん、ずしさん、破竹の勢いでコミュニティを盛り上げるテックハウスのみんな(カッキー、こうへい、だっつ、えいちゃん、しゅーご君、かじもな)、こうした周りの人たちの存在があって、今日まで挫けずに戦ってこれました。
もう一つ、私の中で譲れないものは夢です。散々、自分を差し置いて果たしたい想いについて綴ってきたのですが、もし私個人の夢を問われるのであれば、やっぱり「ユニコーンカンパニーを作りたい」です。企業価値1Bドル(1000億円規模)を超える上場前の会社を総称してユニコーンと呼ぶのですが、現存する有名どころでいうと、決済APIを提供するStripeや、音声コミュニケーションツールDiscordが該当します。
ユニコーンカンパニーは世界で8000社にも数えられるとされ、企業価値だけを測定するのを目標設定としてどうなのかという声もあると思います。それでも、私にとって「ユニコーン」という響きは特別なもので、ちょうどユニコーンという言葉が使われ始めた7年前に、私はシリコンバレーに入り、DropboxやUber、Airbnbが世界を変えていく様子を目撃しました。それの当事者になれるのなら、人生の全てをくれてやっても構わないと心底思えたし、今なお色褪せていません。
この通り、20代の大半をこの夢に賭けてきたのですが、ユニコーンの尻尾が見えてくるどころか、未だスタート地点の回りを巡っているところにいます。輝きが強かったからこそ、もっと近くに感じていた夢ですが、始めてみたら、ずっと深く、途方もない先にあるものでした。それでも、追い続けられたからこそ、胸を張ってこの夢に挑むことができます。
私事ながら、一ヶ月ほど前に30歳の節目を迎え、いよいよ若手とも名乗れなくってきたのですが、やっぱり夢を追うって楽しい。文字通り、夢中になれる。それは辛いことだって沢山あるけど、勇気があれば何度だって立ち上がれる。自分にとって大きな何かを捨てる覚悟はいつだってできてる。いつか叶うその日に向かって、目の前に立ちはだかる岩盤をすべてぶち抜き進んでまいります。