ソフトバンク・ビジョン・ファンド(以下、SVF)。スタートアップに関わる人で、その名を知らない人はいないであろう。SVFは、ソフトバンクグループが抱える世界最大級の投資ファンドで、同社代表取締役会長・孫正義氏の肝煎り事業だ。これまでに10兆円以上の資金を運用し、世界中のスタートアップに投資している。
SVFは、もともと海外企業への投資に限定していたが、2021年10月に日本企業への投資開始が発表され、日本国内でも話題になった。SVFは、当時、日本企業への投資を担当するチームを組成するにあたり、ソフトバンクから選りすぐりの4名の精鋭メンバーを招集した。その中の1人に、当時若干24歳の青年がいた。彼の名は、ジトン・マオ(茅子桐、Zitong Mao)だ。
マオ氏は、中国出身で、アメリカの最先端の大学に入学し、金融とコンピューターサイエンスを学んで最優等で卒業し、4ヶ国語を操る秀才だ。マオ氏は、新卒でソフトバンクに就職し、米国上場株投資に従事する中で、SVFの日本チームに抜擢された。
しかし、ソフトバンクが日本を代表する企業とはいえ、マオ氏はなぜ新卒の就職先として日本を選んだのか。いわゆる「グローバルエリート」のマオ氏にとって、大学卒業後のキャリアの選択肢は世界中に無数にある。日本を選んだその理由を聞くと、興味深い答えが返ってきた。
「日本のアニメが好きなんです」
中国出身のグローバルエリート
1997年5月に中国の南京で生を受けたマオ氏は、一人っ子として両親から大事に育てられ、小中高一貫の進学校で学生時代を過ごした。中国では経済的に余裕のある限り、トップの学生はアメリカの大学を目指す風潮がある中で、マオ氏が通った学校は、アメリカの大学進学において中国でトップの実績を誇る進学校であったという。
勉強に打ち込む日々の中で、マオ氏にとっての唯一の楽しみが「日本のアニメ」だった。マオ氏は幼少期から「ドラえもん」や「デジモン」、「名探偵コナン」を見て育ち、どんどんと日本のアニメやゲームにのめり込んでいった。当時の中国では、今ほど日本作品への規制がなく、日本の深夜アニメが中国のプライムタイムで放送されていたというほどだ。中でもマオ氏は人気アニメ「ラブライブ!」の大ファンであった。
アニメやゲームに打ち込む、いわゆる「オタク」なマオ氏だったが、勉学も疎かにしなかった。大学受験の結果、見事、アイビー・リーグなど数々の名門校に合格したが、本人曰くある種の反抗期から、典型的なエリートが歩む「見える未来」を拒絶し、ミネルバ大学への入学を決めた。専攻は金融とコンピューターサイエンスだ。
ミネルバ大学は、シリコンバレーの起業家が2012年に設立した新興大学で、世界最大級のベンチャーキャピタル(以下、VC)の「Benchmark」からシードラウンドで2500万ドルの資金を調達したスタートアップでもある。1期生として入学したのはわずかな120人、合格率は2%以下だった。そのうちの1人がマオ氏だ。
ミネルバ大学は、全寮制で、キャンパスを持たない。学生は、4年間の間に世界7都市を移り住みながらオンラインで授業を受講する。マオ氏は、アメリカのサンフランシスコから始まり、ドイツのベルリン、アルゼンチンのブエノスアイレス、韓国のソウル、インドのハイデラバード、イギリスのロンドン、最後に再びサンフランシスコ(台湾の台北の予定であったがVISAの関係でキャンセル)を4年間で渡り歩いた。
大学生活の中で世界中を渡り歩いたマオ氏だったが、一番の思い出の地が、1年生の際に観光として訪れた、他ならぬ「日本」であった。中でもマオ氏のお目当ては、2016年の当時、東京ドームにて開催されていた「ラブライブ!」の声優陣によるユニット「μ's」の最後のワンマンライブだった。大ファンであったマオ氏は、当時を振り返って「めちゃくちゃ感動して、『日本に住もう』と思う最初のきっかけになりました。あの時の胸の高鳴りは今も消えてません」と語る。マオ氏の日本への情熱が爆発した瞬間だった。
アメリカに帰国したマオ氏は、日本のあらゆる企業でのインターンに挑んだ。ミネルバ大学は、夏休みに4ヶ月の期間を設けており、学生にフルタイムの長期インターンを推奨している。マオ氏は、1年次にはアメリカの富士通(Fujitsu Laboratories of America)に勤めたが、翌年からは日本に実際に滞在し、日本のスタートアップに勤めることになる。
2年次は、日本で自律分散型水循環システムを開発する「WOTA」だった。ミネルバ大学のスポンサーの1人に、孫正義氏の実弟の孫泰造氏がいたことで、日本でのインターンの話が進み、同氏の投資先のWOTAにソフトエンジニアとして勤めた。3年次には、日本の旅行情報サイト「トラベルjp」にソフトエンジニアとして勤めた。
日本滞在中のマオ氏は、孫泰造氏が無償で貸し出すシェアハウスに住み込み、月々2000ドルほどの給料を貰って週5日で働き、余暇にはライブやカラオケに行くなど、充実した日々を送っていたという。マオ氏にとって日本は、どこよりも、楽しく成長できる場所だった。
日本でのインターンを終えたマオ氏だったが、日本への情熱は止まるところを知らず、卒業後の就職先としても日本を選んだ。ミネルバ大学を最優等(summa cum laude)で卒業したマオ氏は、2019年10月、新卒でソフトバンクに入社した。
新卒でソフトバンクに
「日本で働くからには、外資系ではなく、意思決定が近いヘッドクオーターで働きたかったんです。ソフトバンクは、当時ビジョン・ファンドが一番盛り上がっていた時期で、日本企業だけど全世界で活躍していました。それと、僕は孫さんにすごく憧れていたんです。当時の中国一の会社『Alibaba』に投資したのは孫さんなので、中国の人はみんな孫さんのことを知っているんですよ」
マオ氏は、ソフトバンクに入社後、事業開発の部署に配属され、SVFの投資先企業のバリューアップ、主に日本進出の戦略コンサルティング業務に従事した。同部署の代表的な成功事例として、SVF投資先のインド企業「Paytm」の日本進出をサポートして展開した「PayPay」などがある。マオ氏は、LINEとヤフーの統合にも携わるなど、同部署にて約1年3ヶ月の時間を過ごした後、2021年1月に投資戦略の部署に異動した。
マオ氏は、同部署にて、米国株チームとして「SBノーススター」を担当し、シニアアソシエイトとして米国上場株投資のためのリサーチと分析に従事していた。SBノーススターとは、孫氏が33%を、残りの67%をソフトバンクグループが出資し、米国上場株を中心に投資を行う投資運用子会社だ。
そんな中、2021年当時、「SmartHR」がユニコーンになるなど日本のスタートアップの市況が盛り上がっていたこともあり、孫氏の「ビジョン・ファンドはなんで日本に投資していないのか」との一声から、SVFで日本企業への投資を担当するチームが組成されることになる。そこで白羽の矢が立ったのが、マオ氏の米国株チームだった。チーム4人のほとんどのメンバーがもともとSVFに在籍していたこともあり、そのままチームごとSVFに招集されることになった。2021年7月のことだった。
SVFの日本チームは現在(2022年11月)までに、「アキュリスファーマ」「SODA」「AIメディカルサービス」「LegalForce」の4社に出資しており、マオ氏も、アナリストとして投資先選定のためのリサーチと分析に従事し、3件の案件に携わった。SVFは孫氏直属のチームであるため、メンバーは基本的に、投資先を探し、目ぼしい企業を見つけては、1ヶ月ほどの時間をかけて検討して資料を作り、数分で孫氏にプレゼンをする。その企業の代表も同席する場合もある。
「孫さんは、意思決定において『10秒』集中して考えます。10秒考えなくても分からないことは、分からないことなので、考えなくて良いと。なので、僕たちチームの仕事は、彼が10秒で判断できるように、論点が洗練された分かりやすい資料を作ることです」
孫氏は、基本的に仕事の多くが投資業で、アメリカやヨーロッパとの時差にも自ら合わせていることから、深夜の1時・2時まで仕事をして朝の6時・7時からまた仕事を始める毎日を送っているという。マオ氏は、孫氏を尊敬してやまない。お金ではなく信念や情熱で動き、短期ではなく長期で焦らず物事を見て、寝る間を惜しんで仕事に向き合う孫氏に多大なる影響を受けたという。
しかし、マオ氏は、SVFでの約7ヶ月の期間を経てソフトバンクを去る決断をした。2022年2月のことだった。
日本最大級のVCに転職
「ソフトバンクは、世界最高レベルの仕事を経験できますし、先輩たちはまじで優秀ですし、すごく良い環境でした。ただ、投資した会社は、僕が投資したいより、孫さんが投資したい会社なんです。しかも、レイターステージの投資ではジュニアとして作業がメインになるのですが、僕は、起業家と一緒に未来を語り、夢を作っていきたいんです」
「僕は人の夢を応援するのが好きなので、アーリーステージに行くと、起業家と繋がることができます。そのためには、自分がちゃんと責任を持つ人にならなければいけない。ビジョン・ファンドのようなレイターステージのファンドでは、基本パートナーにならなければ1人で起業家と向き合うことができないのですが、グロービスでは僕のようなジュニアでもそれができます」
SVFを後にしたマオ氏が次なる挑戦の場所として選んだのは、独立系VCのグロービス・キャピタル・パートナーズ(以下、GCP)だった。GCPは、1996年に日本初のハンズオン型VCとして設立され、これまでに1600億円以上の資金を運用し、190社を超えるスタートアップに投資している。その投資先のうち、45社が上場、25社がM&Aという目覚ましい数字を叩き出している。
同社が2022年7月に新たに発表した7号ファンドでは、過去最高額の500億円規模で一次募集を完了し、年内に700億円規模でのファイナルクローズを目指している。同ファンドでは、国内巨大産業のDXや日本発グローバル展開を志すスタートアップへ、1社あたり最大100億円近い投資を行うことで、ユニコーン・デカコーンを創出し、日本の次世代産業を作る狙いがある。
GCPは、日本でも最大級の実績を誇るが、日本のトップのVCに留まらず、日本から世界的なスタートアップを輩出することで、世界のトップのVCを目指している。その上で、海外に精通しながらも、日本に情熱を持つマオ氏はぴったりの人材であった。マオ氏のVC投資家(ベンチャーキャピタリスト)としての人生が始まった。
GCPでは、投資チームが10人ほど在籍しており、平均的に年間1人あたり1社に投資する。投資チームが厳選を重ねた上で出資を決定し、投資担当者が出資先の経営チームに社外取締役として参画してハンズオンで支援するスタイルだ。マオ氏は、GCPへの転職から約半年の月日が経った現在(2022年11月)、まだ投資実行には至っていないが、日々「これからどんな世界になるか」「これからどんな会社が伸びるか」を考え続け、リサーチし続けている。
マオ氏は、個人の投資哲学として、必ず誰かの何かのペインポイントを本質的に解決するような会社にのみに出資することを掲げている。「Nice to have」ではなく「Must to have」だ。その上で、孫氏からの影響もあり、マオ氏は起業家のミッションを重視している。
「僕が孫さんから学んだ一番のことは、ミッションです。もちろん数字は見ますが、そのサービスが人々をどのように幸せにするのか。そのミッションがないと孫さんは出資しません。僕もこれからのベンチャーキャピタリストの人生で、そのサービスが、儲かるだけでなく、ちゃんと人々の生活を幸せにできているかを意識してやっていきます」
マオ氏は、自身のオタクとしての経験からエンターテイメント全般、ソフトウェアエンジニアとしての経験からテクノロジー全般を主な投資領域として、日々起業家を探している。中でも、イベントや飲み会の参加、TwitterのDMなど、ネットワーキングに没頭しているという。アーリーステージの投資には「出会い」が何よりも大切だからだ。
マオ氏は「Web3」にもアンテナを張っている。GCPが2022年に発表した「Astar」との連携も、GCPのWeb3チームとしてその橋渡しに貢献した。マオ氏は「Web3は、優秀な人材が沢山流れていますし、エンタメとも相性が良いですし、注目しています」と語る。
「日本の力になりたい」
マオ氏は、GCPの中でパートナーを目指し、同社の25年の歴史の中で積み上げられてきたノウハウと資金力を活かして、「日本発で世界トップの会社」を作ることを目標に掲げている。その理由を聞くと、マオ氏は「僕は悔しいんです」と言った。
「僕は悔しいんです。同級生たちが、アメリカのシリコンバレーや中国の深圳や上海に行く中で、『なんで日本に行くの』と聞いてきます。日本は給料もそこまで高くないですし、経済的にも伸びているイメージがないので、それは悔しいなと思って。だから僕は、日本のベンチャーが世界で活躍できるように応援して、日本を強くしたいです。日本が大好きなんですよ」
マオ氏の日本への情熱は、前述の通り「アニメ」から始まっている。中でもお気に入りは、「ノーゲーム・ノーライフ」「ラブライブ!」「かぐや様は告らせたい」「SPY×FAMILY」だ。学生時代には、そのアニメ愛から日本のゲームにも傾倒し、プロゲーマーとしても活動していたという。さらに驚くことにマオ氏は、投資業と並行して、2022年5月にデビューシングル「New World」をもってJ-POP歌手としての活動を開始した。歌手名は「Z.T.Mao」だ。
初来日の「μ's」のファイナルライブで覚えた感動を忘れることができなかったマオ氏は、自らがJ-POP歌手となってその感動を再建するために行動を起こしたのだ。もともとGCPの採用面接でも「歌手になりたい」の一点張りだったという。マオ氏は、歌手デビューを自身にとっての「起業」だとした上で、歌手としての目標を「自分の曲をアニソンの主題歌にしたい。そして、いつかアニソン歌手として東京ドームのステージに立って、6万人に感動を届けたいです」と語る。
中国とアメリカを飛び出し、自分自身の情熱に従って日本に来たマオ氏。VC投資家として、J-POP歌手として、彼の日本への本物の情熱が、私たちの未来を変えるかもしれない。
「ベンチャーの話をすると中国やアメリカが強いですが、僕にとっては、日本のアニメ、ゲーム、音楽は世界の中でも最高なんです。エンターテイメントに限らず、日本はテクノロジーでもいくつか世界でトップのものを持っていて、まだまだ強いのに、ビジネスがあと一歩足りない。日本はすごく良い場所で、これからもずっと住みたいですし、みんなに来てもらえるような国にしたい。僕は日本の力になりたいです」
出演:ジトン・マオ
https://protocol.ooo/u/zitong-mao