Published 25 Oct 2022

【篠原豊】起業の成功も失敗も経験するエンジェル投資家

【篠原豊】起業の成功も失敗も経験するエンジェル投資家

はじめに

現代、世の中のあらゆる課題に対して問題意識を抱き、より良い未来のために勇気と覚悟を持って挑戦する者たちがいる。いわゆる「スタートアップ」だ。

そして、スタートアップの裏側には、その誕生と成長を支える個人がいる。いわゆる「エンジェル投資家」だ。彼ら彼女らは、自らの経験と資金をもってして、創業間もない、場合によっては創業前のスタートアップをサポートする「現代版のパトロン」だ。日本のエンジェル投資家は、著名人としてはサッカー選手の本田圭佑などがいるが、まだまだ全体としては謎に包まれている。

そこで、本企画では、日本の知られざるエンジェル投資家を取材し、彼らのバックグラウンドを解き明かしていきたい。今回のゲストは、篠原豊。

篠原は、ベンチャー企業の創業・売却・上場に数社携わり、日本・東南アジアのスタートアップに自ら約30社近く投資するエンジェル投資家だ。並行して、スタートアップエコシステムの発展のため、愛知県が運営するスタートアップアクセラレーション施設「プレ・ステーションAi」にて起業家のメンターも務めている。そんな篠原にオンラインでインタビューを実施した。

篠原の過去

篠原は、大分県日田市で生まれた後、鹿児島で自由でのびのびとした環境で幼少期を過ごす。篠原は、物心つく前から単身赴任していた電力会社のエンジニアの父親とは一緒に暮らした記憶はないものの、一家の末っ子として、母親と歳の離れた姉妹に深い愛情を掛けられた。篠原がいつも母親から言われ続けた言葉がある。

「あなたは男だから絶対に鹿児島にいてはならない。東京へ行き、知らない世界を体験してきなさい」

人と違うことが許されない時代、県外へ行けと言うのは珍しい考え方である。当時の鹿児島県は、非常にコンサバティブで閉鎖的だったのだ。母親の自立心を育む教育により、好奇心旺盛な子供に育つ篠原。習い事には1人で通い、5歳の頃には大分までたった1人でバス移動し、父親に会いに行った。

篠原の好奇心は知らない国や地域に向き、世界地図を広げては百科事典を読み漁るようになった。まだ見ぬ世界に思いを馳せる時間を何より好んだ。篠原は当時を振り返り、「見知らぬ土地でやりたいことをする地盤ができた瞬間であった」と語る。

篠原は、中学では剣道部、高校では剣道部と野球部を両立し、学業よりも、部活動に精を出し、友人と過ごす時間を好んだ。この頃から、規範に従う学校生活やマニュアル通りの人生に息苦しさを感じた。同級生が将来の夢に「公務員」を挙げる中、鹿児島県を出て、東京の大学に進学したいという思いが強くなる。

県外進学をする場合、早慶・東大・京大といった一流大学でなければ、親不孝者と見なされる土地柄だ。卒業後に県外、とりわけ東京へ行く選択をする同級生はほとんどいない。その価値観は非常に珍しく、異端である。高校3年次には、卒業後の進路を考える機会が増えた。東京への進学を希望する篠原は、たまたま1番上の姉の旦那が東京出身ということもあり、彼に東京での生活について聞き漁った。話を聞けば聞くほど、東京に対しての憧れはどんどん膨らむばかり。

幼少期より母親から「東京に行きなさい」と言われ続けていた篠原は、家族の応援もあり、高校3年生の夏、いてもたってもいられず、東京の予備校に通うことになる。篠原にとって初めての東京は、何もかもが新鮮で、エネルギーに溢れていて、感動の日々であった。絶対に東京の大学に進学するという目標が強固なものになった篠原は、受験勉強に明け暮れ、無事に東京の立正大学へ入学する。

大学時代は、将来について深く考えることなく、アルバイトと遊びに明け暮れる日々。たまたま知り合いのコネで内定を1社貰っていた篠原だったが、バブル期ということもあり当時は職に溢れており、高みを目指して内定を辞退した。しかし、大学4年で就活時期を迎えたタイミングで無惨にもバブルが弾けた。就活氷河期に突入し、多くの学生が悔し涙を流すことになる。

周囲の同級生がなんとか内定を獲得し新卒として働き始める中、篠原はフリーターになった。毎日コンビニでアルバイトをし、3食コンビニ飯を食らう。抜け出したくても抜け出せないもどかしい毎日に危機感を覚えた篠原は、アルバイトの傍ら、就職活動を始め、半年後に新聞の折込チラシを制作する会社に入社した。しかし、地獄の日々が始まってしまうのだ。当時の生活について、篠原はこう語る。

「バブル時代は、敷かれたレールの上でなんとなく生活を送っていればいいと思っていました。しかし、図らずも、バブルが弾けてしまい、突然、自分自身で将来の進路を切り拓く必要がでてきました。新卒でフリーターとして食い繋ぐ日々。就職先がなんとか見つかって入社したのはいいものの、その会社は、『超』がつくほどのブラック企業でした。手取り10万円、休みは1日もない。自分の家にもほぼ帰れない日々でした。キャリアを大幅に変えなければ、さらに深刻な状況に陥ると思いました」

篠原はそこから一揆奮闘し、転職活動を開始する。数えきれないほどの会社にコンタクトを取り、祈られる毎日。そんな中、幸運にも1社内定を貰う。その会社こそ、「トレンドマイクロ株式会社」だ。今では上場企業として名を馳せている同社だが、篠原が入社するタイミングでは創業間もないITベンチャー企業であった。篠原は、入社したは良いものの、ITについて勉強した経験がなく、PCも持っておらず、ブラインドタッチすらできない状態からのスタートだった。

入社翌年、思いがけず、トレンドマイクロ株式会社が上場し、篠原の人生を大きく変えることになる。篠原は、上場した時の会社の盛り上がり方や信頼度の上がり方などを肌で感じ、スタートアップの凄さを知った。篠原は当時のことを一生忘れないと言う。

篠原は、約7年間勤め上げたが、会社も大きくなって業務も安定し、個人の成長を感じられなくなる。大企業の慎重な姿勢が向いていないと感じ、改めて転職をする。転職の軸をITとベンチャーに決め、知人からの縁もあり、日本ベリサインに入社した。その1年後、またもや、入社した会社が上場する。30歳過ぎで上場を2回も経験するという非常にエキサイティングな経験となった。

一方で、日頃自身が携わる「セキュリティ」という業界に対する思いが変化する。篠原は当時の思いを次のように語る。

「セキュリティは非常に奥が深いが、社会・経済・ユーザー・エンドユーザーに直接的なインパクトを与える領域ではない。いわゆる、社会の裏方である。段々と社会に対して、直接インパクトを与える仕事を始めたくなった」

その後、「エルゴブレインズ」に入社。同社は上場会社でありながら、かなり厳しい状況であり、会社の立て直しに急を要していた。篠原は営業の執行役として入社し、経営陣と連携を取りながらなんとか赤字から黒字に会社を立て直す。篠原は、今までは営業職として業績を伸ばす仕事をしていたが、停滞した事業や組織を立て直す難しさと面白さ、つまり「経営の面白さ」をこの時に知った。篠原は当時を振り返り、こう語る。

「自分は本当に恵まれている。たまたま入社した会社でしたが、2社ともに、入社翌年IPOを達成しました。さらに、上場している会社の立て直しにも貢献し、普段では味わうことができない経験を積むことができました。自分自身が経営に携わらない限り、会社にまつわる数字を確認したり追うことは少ないです。経営陣と並走することで、初めて会社が動いている仕組みとその面白さを学び、次は自分で0から起業したいと思いました」

篠原は、起業の準備をしている中で、イスラエル人が社長を務めるZenlokというベンチャー企業と出会い、少額で出資しながら営業事業部長として同社にジョインすることになった。

ワンルームマンションで5人体制のスタートであった。

篠原は、事業作りから、マーケティング、セールスを手掛け、CFOのようなポジションにも入り、当時の資金調達額としては異例の1億5千万円の資金調達を成功させた。同じような目標額を達成できるスタートアップはほとんど存在しないため、このインパクトが注目を浴び、業務提携を成功させる。起業するまでの準備期間として入社したZenlokであったが、篠原にとってかけがえのない時間となったのだ。

篠原の起業

そして、2010年。「エバーコネクト株式会社」を設立し、起業した。人と人を繋げるメッセージコミュニケーションアプリを作りたいと考え、中国人エンジニアを雇い、プロダクト開発を開始する。TechCrunchの第1回イベントにも参加し、多くの脚光を浴びた。この時、多くのエンジェル投資家とも出会い、かの有名な西川潔からの出資も獲得するに至った。

次に参加したピッチイベントでも、VOYAGE GROUP(現カルタホールディングス)からも賞や出資が決まり、篠原の今までの努力が報われたように、とんとん拍子で創業できた。

篠原は、事業を進める際、日本ではなく世界で戦うことを決め、ユーザーの多い英語圏で勝負すべく、篠原以外全員外国人という精鋭チームを作った日々チームとプロダクト開発に勤しむ篠原だったが、資金がショートし、プロダクトは上手くいかなかった。資金調達でなんとかカバーしようとするも、敢えなく失敗し、無念にも事業をストップすることになる。

さらに、追い討ちを掛けるように、母親が他界。その2年後には、父親を亡くしてしまう。篠原は愛する両親の葬儀で喪主を勤めるものの、葬儀屋やお寺のサポートが杜撰で不快な思いをした。歯痒い経験を基に、葬儀の透明性を高めたいという思いを抱く。自分のような思いをする人を1人でも救いたい。そんな思いから、2013年、Amazing Life株式会社を設立する。思うように資金調達ができず苦戦しながらも、闘志だけは燃え尽きなかった。篠原は当時の苦境をこう語る。

「ベンチャー企業の誕生、成長、IPO、上場企業の立て直し。さらには、自身のサービスの立ち上げなど、あらゆる経験をしてきました。これほど経験をしている人は世の中を見ても、なかなか存在しない。この経験を強みにしていこうと思いました」

そこから篠原は、ご縁のあったエバーコネクト株式会社に入社し、大企業の新規事業共創サービスに携わった。大企業に対して自分の経験を活かし、コンサルティングとしてIT化の支援を行った。

篠原は、新しいイノベーションを起こそうと奮起するスタートアップと出会う機会も増える中で、エンジェル投資も開始する。投資を通して他の株主とも出会い、新たな縁にも恵まれていく。さらに、スタートアップエコシステムを実りのあるものに成長させるため、行政とも手を取り合い、スタートアップの成長を支援する環境作りにも大きく貢献する。

エンジェル投資家としては現在、累計26社に投資している。投資は、市場の大きさ、タイミング、チームを見て判断する。4半期に1度、創業初期のプロダクトが未完成の状態でも、彼らの未来を見据え、投資するという。

現在は、大企業の新規事業コンサルティングやスタートアップへのエンジェル投資、スタートアップの成長を支援するための公共連携(Pre Station等)に注力する篠原。篠原は、自身の経験を活用し、大企業とスタートアップの両方の支援に全力を注いでいる。彼が日本のスタートアップエコシステムを変えてくれるかもしれない。

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